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曹洞宗の教え
 


曹洞宗の教え こちらでは、毎月私どもの宗旨「曹洞宗」について 詳しくお話してまいります。
●第1回 曹洞宗の歩み
●第2回 曹洞宗の名前の由来とは
●第3回 道元禅師さま
●第4回 瑩山禅師さま
●第5回 永平寺について
●第6回 総持寺について


曹洞宗の歩み

仏教は、約2500年前にインド北部の王子であったお釈迦さまによって説かれたのが始りです。そして中国・朝鮮半島を経て西暦538年~552年頃、日本に渡って来たと言われています。

日本に渡った仏教は、聖徳太子さまによって全国に拡められ、最初の統一国家をつくりあげるのに仏教精神(思想)を中心に政治を行い、国をおさめたと言われています。

鎌倉時代に入って我が曹洞宗の開祖と言われる道元禅師(どうげんぜんじ 1200-1253)が、今までの天台、臨済宗の仏教思想ではものたらず、中国に渡り仏法を深く学び、1226年に帰国後曹洞宗の基礎を築きました。道元禅師は弟子の育成と共に、世界的な大思想書である「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を著しました。また道元禅師は、日本に歯磨・洗面・食事の作法・掃除の習慣などを広めたともいわれています。


その後、名僧瑩山禅師(太祖 けいざんぜんじ)などによって曹洞宗はさらに拡められて、今日の大宗団になったようです。

曹洞宗では、本尊さまはお釈迦さまを仰ぎ、唱名は「南無釈迦牟尼仏」となっています。

快林寺
 


曹洞宗の名前の由来とは

中国の名僧といわれる達磨大師の流れをくむ慧能禅師(えのうぜんじ 7世紀)が当時の曹渓という地で禅を広め、 その後、名僧良价禅師(りょうかいぜんじ 9世紀)が洞山の地で禅を説いたので、一説では、 この両地名の頭文字をとって曹洞宗となったといわれています。
また、道元さまが、中国の修行道場で学び、悟った時の師匠が如浄禅師であったことから、 その流れをくむ禅宗をもとに命名したともいわれています (宗派にこだわらないといわれている道元さまだけに、後の名僧たちによって命名されたともいわれています)。

 


曹洞宗を開いた道元禅師さま(高祖

私たち宗旨(信仰)の曹洞宗をおひらきになったのが道元禅師(1200~1253)さまです。

道元さまは高貴の家系(父は久我家、母は藤原家)に生まれながら時の乱世を嫌い、出家し、お坊さんになった人です。道元さまはもともと優秀で四才にして、中国の漢詩「百詠」を読まれ文殊丸(文殊菩薩)と呼ばれていたといわれています。

出家して最初の頃は、京都周辺の天台宗、臨済宗で学ぼうとしましたが、宗教界が乱れ、それを嫌い1223年に明全和尚と共に中国に渡り、仏教をより深く学ぶことにしました。
そこで典座(食事を作る責任僧)によって仏教の第一歩を学び、よりお釈迦さまの正法を学ぶためには、実際の”行”を通じて学ぶべきと考え中国での修行の旅に出て、多くの名僧に出会ったといわれています。
その仏教の旅の中でも特に、学びが多かったのは、名僧如浄禅師に出会ったことともいわれています。

帰国後は、日本曹洞宗を建立し、越前(福井県)の山中で坐禅三昧に入っていましたが、道元さまの優秀さを知った時の鎌倉幕府は、鎌倉に住まわせましたが、幕府につくことは仏教本来の教えに反するということで、再び越前の永平寺にもどり、修行のかたわら、後に大思想書ともいわれた「正法眼蔵」をまとめるために晩年を過ごしたといわれています。

曹洞宗も正法眼蔵を教義に今日の基礎が生まれたともいわれています。
また、道元禅師さまは精神を休むことなく学び、自分自身を学んだ人ともいわれています。

 


曹洞宗を広めた瑩山禅師さま(太祖)

曹洞宗の中でも道元禅師さまと並んで両祖格と言われた瑩山禅師(けいざんぜんし)さまは、”太祖”として曹洞宗を全国的に広めた僧といわれています。

瑩山(紹瑾)禅師さまは、能登の総持寺(現在の鶴見にある)を開き、仏法の日常化、生活化(実践化)を説き、今日の仏教の民衆化に力を入れ曹洞宗を広めました。 また多くの寺院を開いた禅僧ともいわれています。弟子の育成にも力を入れたようです。

【峨山紹碩(がさんじょうせき)】(総持寺二世)
瑩山禅師の弟子として総持寺・永光寺を受け継ぎ、曹洞宗教団の今日の隆盛の基本をきずいた功績は大きいといわれています。
峨山紹碩は「仏教は釈尊の宗教体験から生まれた宗教である」と強く説いています。
著作には「峨山禅師全集」があり、戒律を守ることを中心としています。
道元禅師には懐弉あり、瑩山禅師にはこの峨山ありといわれ、宗祖はよき後継者を得たものです。

 

 


永平寺(大本山) ・・・福井県吉田郡永平寺町

道元禅師さまが越前(福井県)に建立されたのが大本山永平寺です。

道元禅師さまがこの地に入ったのは44才の時で、多くの弟子たちを育成しながら、一方で「正法眼蔵」などを著わし、日々増える弟子や僧徒が住める伽藍づくりをしていました。
永平という名は、中国に仏法が伝来したといわれる後漢の永平年間(1世紀頃)ということから名付けられたようです。

また、永平寺の長である禅師は昇住制でしたが、六十二世雪鴻和尚から、全国の曹洞宗寺院の公選によって決めるようになりました。

永平寺は1244年(鎌倉時代)の建立以来何度か火災にあいましたが、その都度全国の寺院、信徒の協力によって復興してきました。永平寺と総持寺は1872年(明治5年)に両本山となり、現在はそれぞれの管長さんによって運営されており、 連日全国の檀信徒の参拝や一般信者の見学で賑わっています。

 


総持寺(大本山)・・・横浜市鶴見区

鶴見の総持寺」として有名です。 JR鶴見駅から歩いて、10分という都心の近くの丘陵に位置しています。総持寺は雲水の道場としてのみでなく、一般の人、学生、一般参禅者、参拝も多いのが特色です。

太祖瑩山禅師は54才の頃、能登の諸嶽寺を禅師の総持寺として開山しました。山号を諸嶽山と名づけ、伽藍を整備、4年後、法席を峨山禅師に譲り、もとの永光寺に帰山しました。
その後、総持寺を継いだ峨山禅師は91才まで総持寺の基礎を築きました。そして、門下伝法25人の中の5人によって本山寺中に、普蔵、妙高、洞川、伝法、如意の五院を創め、のちの本山の輪番住持制の基礎を築いたといわれています。

本山は、1615年(江戸時代)徳川幕府によって永平寺と同様な法度が定められ、前田藩の外護を受けました。 1898年(明治31年)火災によって焼失しましたが、その後、時代の流れと未派檀信徒等の要望により、現在の地、鶴見へ移されました。能登の旧跡は別院となり、1911年(明治44年)11月落度入仏の式典を挙行したといわれています。
その後、諸禅師によって興隆し、諸堂が整備され、1929年(昭和4年)の春、宗派を挙げて大伽藍が完成しました。

鶴見に移って約百年、総持寺は現在も多くの末寺、信者に支えられています。
なお、永平寺と共に大僧堂は、全国の曹洞宗の僧侶雲水の修行の根本道場とし、基本的に一般の方の出入りは許されておりません。

 

 

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